私向けリクエストアワー

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武内享さん:That's The Checkers!

ギタリスト・武内享氏を初めて生で見たのは、冬のライブハウスであった。漫画におけるハンサムボーイが名札代わりに纏う毛皮のコートを着た武内氏は、スターの登場に沸き立つオーディエンスの間をさっそうと抜けてステージに立つ。「チェッカーズ武内享、行きます!」と高らかに宣言した氏の手によって、おもちゃ箱のような魅力を放つチェッカーズの楽曲たちが次々とプレイされる。アルコールの香り、煙草の匂い、そして時を越えて輝く楽曲たち。こんなに楽しい時間があるのだから、大人になるのもそう悪いことじゃない。誰よりもよく笑い、よく喋り、チェッカーズを愛している少年のような武内氏を見てそう思ったのであった。
 楽しいライブはあっという間である。そしてたいていは終わった瞬間に泡沫のように消えていく。ただ気持ちの良い余韻を残して。Standing on the rainbowと名付けられたこのイベントも、虹のように鮮やかにきえていった。振り返って覚えているのはただ楽しかった、というシンプルな感想だけである。
 しかし、一つだけぼんやりと―いや、やけにリアルに覚えていることがある。武内氏がステージ上で自前の靴をさし(その靴はやたらと底の厚い立派なものであった)、「今日は靴おろしたてだから、ちょっと足がいたいのよ」と言い放ったシーンである。私が愛したミュージシャンはMCでやたらと悪夢の話をしたり、何も話さなかったり、まぁとにかく演出がかった言葉を話す人ばかりであった。ミュージシャンというのは、そういう言語を喋る人であるという認識を持っていた私は武内氏の言葉に耳を疑ったのである。まさかまさか。靴とか。確かにおろしたての靴はいたいけれども、である。変わった人もいるもんだなぁ。
と、ここまで書いてみて、このシーン実は私が見た夢だったかもとちょっと疑っている。ステージで足が痛いって話しする?でも享さんならしそうではある。ていうかむしろ積極的にするような。
 というわけでどこまでがほんとでどこまでが夢か、すべて現実なのかわからなくなったところで(これ単純に私の記憶力の問題な気もする)チェッカーズの愛すべきリーダー・武内享さんのことについて書こうと思います。

 In the beginning, there weren’t nothing but the music

 チェッカーズの魅惑の音楽性のはじまり。チェッカーズに関する本格音楽評論待望論は正直一生でまわってそうだなぁと思うのですが、このバンドのすごさってそういうところ。多少語ったところで結局すべてではない、という奥深さを生み出したのは紛れもなく武内享さんの音楽的ルーツの幅の広さにあったと思います。

佐々木美夏さんのインタビュー集『14歳』によると、享さんがいろいろなものに目覚める14歳ごろに熱心に聞いたアルバムとしてQueenの『A Night at the Opera』(1975年)、John Lennon『Rock ’n’ roll』(1975年)、Paul McCartney『Ram』(1971年)が挙げられていますね。Rock ‘n’ Rollとかはいかにもお好きなんだろうなってアルバム。
注目すべきは以下のお言葉。

チェッカーズの他のメンバーはキャロルの解散コンサートの映像に大感動して明日ギター買うしかない、みたいな感じだったけど俺はもうちょっとゆがんでいて、ロックンロールはビートルズでもう聞いた気がしていて。スタイルとしてはかっこいいなと思ったけど、そこで音楽に衝撃を受けたって感じではなかったもん。だからく~ってなっていくことに怖さを感じてたのかもしれないね。
―だからアウトプットのスタイルの一つとしてロックンロールをチョイスした。
うん。だからメンバーとは違うものを聴いてた。本当に音楽だったわ、俺。バイク乗ったりもしたけど、やっぱ音楽だったんじゃねえかな、ずっと。


佐々木美夏『14歳』135P

チェッカーズの他のメンバーのインタビューでは、キャロルやドゥーワップ系の音楽に関するお話が頻出するのですが、これらの要素に加えて「メンバーとは違うものを聞いていた」享さんの音楽感覚がチェッカーズの結成初期からバンドの後期にわたって大きく影響を及ぼしているのかと。このバンドが王道のポップさを持ちながらも、その裏側で意外性の攻防を繰り広げていたのはこのルーツの複雑さからくるんだろうな。

ここら辺の時代の空気感誰か解説してくださらないかな。我々の世代でビートルズとかジョンレノン聞いてる子なんてかなりの音楽好き!って子だけだった気がするけど当時はスタンダードだったのかな?)


享さんは「真ん中が嫌だった」サブカル派だったそう。中学生時代にやっていた遊びに関するエピソード*1など、すごく面白そうだし、享さんって演出好きなんだろうな、と思います。
あとすごく、享さん“らしいな”と思ったのがこのお話。

いろんなのが入ってきたけど、でも出口としてロックンロールを選んだっていう。俺はチェッカーズを組む前のほうがもっとギタリストらしかったから。ツェッペリンをコピーしたり、ディストーションエフェクターを買ってサンタナ練習したり。でもその頃に、俺は病んだ。内側に病んだかもしれない。だからなんだろう危ない系じゃないけど……これは初めて話すけど、何かを聞いて異常に感動して、このよさを誰かに伝えたいって舞い上がっちゃって、これが人に伝わらないくらいだったら死んでやる、みたいな。(中略)
―この価値観を共有できないんだったら、もう自分が生きてる意味がない、みたいな?
 意味がない、うん。俺はそういうとこがあったんだよ(中略)とにかく、何かに関してく~っと内面に向かうような感覚はあったよね。

 

佐々木美夏『14歳』、134P。

ミュージシャンのひとが、心を揺さぶられる音楽に出会った時の衝撃を語っているのを読むのが好きなのですけど(こういうエピソード見るたびに、ミュージシャンって本当に感性が研ぎ澄まされているなぁって感動する)、“伝わらないぐらいだったら死んでやる”と思っていたというお話は結構珍しい気がします。自分も同じぐらい感動する音楽をつくりたい、とかプレーヤーとして少しでも近づきたい/超えたい、とかとはちょっと違う、このよさを誰かに伝えたいというスタンス。どれだけバンドが大きくなろうとも、リスナーに届いているか?を問い続けていらっしゃったのはこういう、伝えることに対する情熱からくるものだったのだろうと思う。

 

And He “Created” the Checkers

高2の夏やったね。久留米一のバンドば作ろうって、享と盛り上がってたのは。ー郁弥

月間カドカワ1992年7月号31P

チェッカーズが始まったのは1979年の夏のこと。“久留米一のバンド”を目指して享さんが声をかけたのが藤井郁弥だったという。この時期のストーリーもすごく面白くてチェッカーズを映画にするなら、絶対予告編でコミカルに使いたいエピソード(クロベエ加入の件とか)多数なのですが、ここで「一番先に声をかけたから」*2リーダーが享さんになったのは幸運だし、必然的な気もする。
そして、当初の“久留米一のバンド”という目標というのは、「ただのダンスパーティー専門バンドじゃ面白ないね、踊りよう連中を座らせてやろう、こっちを向かせてやろう」*3というものだったとのこと。これ、どうしてそういう発想に至ったのかすごく気になる。メンバーの全員がダンスパーティーに関して楽しかった!ということを語っているイメージなのだけど、一時的なムーブメントにある音楽、からバンド固有の高い音楽性(おおげさな気もしますが笑)に目覚めていく過程のこととか詳しく知りたい、、
ちなみに、初期のチェッカーズの印象について、マサハルさんは以下のように語っています。

俺は友達とほかのバンドを組んでて、チェッカーズと一緒にダンスパーティーに出たこともあって。そのときにチェッカーズは赤い蝶ネクタイで白シャツに黒ズボンはいとった。で、やっしゃん(郁弥)が「スタンドバイミー」を歌ったときに、それまで踊ってた人たちがみんな座ってきいたわけ。その光景が印象的やん。初めてやん。ダンスパーティーで座って聴くっていうのは。これは凄いバンドがいると思った

月間カドカワ1992年7月号31P

 
このエピソード結構歴史的なことだと思うけど、郁弥さんは全く覚えていないという。そういうとこ、ちょっと“らしい”よね笑 

あと「このバンドをつくった」人として、武内享を語るときに、もちろんチェッカーズを誕生させたという点で語るのは当然あるんだけど、もう一つ、チェッカーズの音楽をつくった人としてのことも語る必要が大いにあると思います。
チェッカーズ解散時のインタビューの以下のお言葉を深く受け止める必要がある。

―常に努力してましたもんね。
音楽は好きだからね。
―個人的にね。
うん、だから、別に説明とかしなかったけどコンサートの楽屋にCDいっぱい持っていて流してたね。
―それとなくみんなの耳にアピールしてたんだ。
それで興味示したヤツには買えば?って。強制はしなかったけど絶対。ただ徳永には聞いてくれってわたしてたけど、いっぱい。オマエ、聴けとか言って。

 

解散時のインタビューより

チェッカーズ写真集454P(ソニーマガジンズ

いいですか、皆さん、ここテストに出ます!今後チェッカーズの音楽性を語る人は必ずこの発言を前提にして考証を重ねるように!
武内享を抜きしてチェッカーズの音楽を語るということは、なんだろ、スパイスが全く入ってないカレーみたいなものなので(それってカレーなのか?)、皆さん注意してください。

ということで、まぁ本当に大きな役割を果たしていらっしゃったわけですが、けっこう中期―後期のインタビューでは、武内さん自身がプロデュースに興味を持っている旨のお話があったりしてそういう方面の目線は常に持っていらっしゃったんだと思います。
でも興味深いのは、いわゆる有名プロデューサーの人たちとはちょっと視点が違うかなってところ。うーん、難しい話なのですけれど、(プロデュースといっても色々あるので)、例えばファッションとかあり方の部分についてはそれぞれがやる(=イメージの構成はしない)点と、絶対にこうして!という指示でなく、見えない道を示すような透明のプロデュースという点は、享さんらしいなと思う。あと本当にプロデューサーの人たちって売れるためにという視点をどこか必ず持ってる気がするのですが(大事なことだからね!!)そういうことでなく、みんなが個性を生かす場を作っていくことに重きを置かれていたのかな、と思います。この辺の話も詳しく知りたい。

 

And the band just begun to roll, Did you ever hear his guitar sound?

1983年のデビュー後、チェッカーズはスターダムへと駆け上がっていく。ポップスの歴史の一ページとして鮮やかに語られるストーリーですが、その裏でメンバーはサウンド面とバンドの在り方について模索していたのが非常に印象的。まぁ悩みのないアーティストの方はいないと思うけれど、チェッカーズの悩み方ってちょっと特殊かもしれない。特にいわゆる初期の終わりかけ(NANAがリリースされるまで)の時期に関しては、すごい大変そうだなぁと思いました。(雑)
一般的に、売れるために悩む人たちって多いと思う。一応ヒット曲の傾向というものはないわけじゃないので、人によっては市場研究すればどうにか、ってアーティストもいたりするわけですが、チェッカーズは最初にとんでもなく売れてしまっていて、そこからどうオリジナリティを出していくか、みたいなことを追いかけていた。こういうのは研究しようもないし、本当に自分たちでどうにかしなければならなかったんだと思う。

あんまり細かくは言いたくないから言わないけど、やっぱ煮詰まってた時期は相当あっったわけで、自分たちのシングルに変わる変わらないくらいの時期は、やっぱりもめたりもしたし、そのあともちょっとヘヴィーだったね

解散時のインタビューより
チェッカーズ写真集452P(ソニーマガジンズ

リーダーであって、オリジナルサウンドの中心であった享さんはとても苦悩されたんだろうなぁ。
で、その苦悩を経て初のメンバー作詞作曲12thシングル『NANA』の発売(1986.10.15)、全曲オリジナルナンバーの5thアルバム『GO』(1987.05.02)になるわけですが、チェッカーズの初期/中期・後期のサウンド面の違いとして大きいのが享さんのギターだなって私は思います。
 初期、とりわけ初期三部作(絶対・MOTTO・毎日チェッカーズ)におけるギターって、(個人的には)そんなに印象深くない、なんというか引き立て役としての、ポップスにふさわしいギターというイメージなんだけど『GO』以降では、リズムを刻む印象的なギターサウンドになる(気がする)。チェッカーズが中期において獲得したオリジナリティって、享さんのギターをどう生かすかにすごく大きくかかわっていたんじゃないですかねー。

本当は俺、ギターに執着がない人間なんです、変な話が。
やっぱ基本的にギターじゃないです、俺のギターは。パーカッション。パーカッショナルが好きなの、絶対。
ひとつのパーカッションであり、リズム隊であるような弾き方をついしちゃうんですよね。


THE CHECKERS PATi▷PATi FILE 1987-1989 282P 

初出PATi PATi1988年1月号

CD音源に関しては、享さんご自身のこの言葉がすべてに感じるのだけど、それなのにライブだと意外とソロとして魅せるプレイだったりするのがまたおもしろい。
享さんの傑作プレイに関しては『GO』以降のアルバムを全部聞いてくれよな!って思うけど、やっぱり印象的なのはTOKYO CONNECTION(GO収録)とかですかね。あとこれはリズムギターともちょっと違うかもしれないけど一週間の悪夢(OOPS!収録)のA~Bメロは細かくまとまってるアンニュイな感じがすごく好き!

 

Ever hear his music? Doin' crazy things

作曲者別のプレイリストを作った時、ダントツでバリエーション豊かで楽しい!のが享さん。とんでもなく大雑把に分けると、TOKYO CONNECTION,90’s S.D.RとかHow’re You Doing Guys?のようなライブ映えする曲(後期のライブにおける享さんの曲の光り方はすごい、しアレンジ映えする曲が多い)もあるしSmiling like Childrenのような色っぽい曲もあって、という感じかな。チェッカーズが誇る素晴らしい作曲家陣4人の中では一番らしさの色をつかみづらい方かも。
個人的に好きな曲は、たくさんあるのだけど、そのままで(I have a dream収録)
とか。こういう曲は表現力がないと歌えないし成立しない楽曲だと思う。みんなすごいんだけどサビでピアノと呼応するギターとボーカルのメロディラインが傑作。
作曲について興味深いお言葉がエッセイの中での以下の文。

私にとって作曲とは何か?
実はそんなムツカシイ事、考えたこともなかったのだが、そう、強いて言うなら、人格を変える事、つまり自分以外の人間になりきるコトだろう。つまり、例えばファンキーな曲をつくろうと考えとする。そしたら、私はその時点で自分の気持ちをアフロヘア―の黒人にするのである。そしてそのまま、フロに入ったり、皿を洗ったり、鏡の前で踊ったり、「ヘイメーン!などと叫んだりする。
そう、確かにバカみたいだが、そうして気持ちを入れてやるとノリのいい曲ができるワケだ。

 

武内享『だんだん気持ちよくなってきた』141P

初出1989年9月号掲載 人格と作曲より

引き出しから出すタイプというよりは憑依型(引き出しも多そうですが)なんというかかなりフリーダム!な印象ですが、それってたぶんチェッカーズに対する夢と信頼が非常に大きかったゆえじゃないかと。バンドに対して固定観念が強くあったらある程度バンドが得意な曲調の曲を作るひとがほとんどだと思うけど、享さんはあまり固定観念は持たずチェッカーズならこれもできそう!って考えていたのかな、と感じます。まぁ他のメンバーもそういう気持ちはあったと思うけど、享さんは特に。
あと、特筆すべきはシングル30枚のうち、享さんがB面を担当しているのが12枚もある!ということ。(参考までに各メンバーのB面曲数:ユージさん5曲/マサハルさん5曲/尚之さん3曲)ファンのみならず世間の人々に向けてリリースされていたシングル曲(A面曲)にはスタンダードな曲、スターとしてのチェッカーズらしさが現れた曲が多い中、その対照的な存在でありながらもキャッチ―さを有し、そしてチェッカーズ自身の新たな一面を提示するのにぴったりだったのが享さんによる楽曲だったのでしょう。
一曲挙げるならばPARTY EVERYDAY!これは当時享さんのエッセイでも触れられていたりして、相当挑戦的な楽曲でもあるんだろうけど、抜群に面白いSEの入れ方とあえてコミックチックなボーカル陣はチェッカーズのワクワク感の真骨頂。そして皮肉のホイップクリームみたいな歌詞とエンディングが傑作!全員ダウンロードすべき1曲。

あと『WのCherry Boys』とか、カートゥーンネットワークみたいな雰囲気曲もあれば、『今夜は何処へ送りましょうか』のようなおとな!な曲もあるのでほんと面白い。B面集はほぼ享さんのベストアルバムと言えなくもないのでみんなサブスクなどでも聞いてね。

mora.jp

ACID RAIN-Baby, that is the Checkers!

チェッカーズ研究界隈において最大にして永遠のテーマである?武内享藤井郁弥の存在についてはまた書こうと思っているんですが、ここではおふたりの唯一の共作詞であるACID RAINについて触れておきたい。

当時歌詞づくりに行き詰った郁弥さん(郁弥さんはわりとどのアルバムでも書くのに時間を要していた印象笑)が、本(『だんだん気持ちよくなってきた』)を出版していた享さんに声をかけて共作したというもの。大枠は享さんが書いて、郁弥さんは歌いやすく手直しした程度らしい。
享さん曰く、「大土井さん(※作曲の大土井氏)もビックリという曲」「初めて否定的な歌だよね、最後バカになっちゃう歌だからね」とのこと。*4
名盤OOPS!の冒頭を飾るナンバーで、世間のイメージとしてのチェッカーズとはかなり離れたとこにある曲かもしれない。けれど、私は(個人的にですが)、“チェッカーズism”が最も表れた名曲の一つだと思います!すごく好きな曲!

歌詞全部かくの面倒なので一部だけ引用しますが、ぜひお手元のブックレットもしくは歌詞出てくる文明の産物で全てのことば味わっていただきたい。

ACID RAINがしとしとしとしと
軽く指先ボタンに触れた
前後左右なにもない
朝も昼も夜もない
笑おうぜ腹を抱え
鎧を溶かす雨に打たれ
笑おうぜ涙垂れ流し
今さらNever Try Again!

笑おうぜ腹を抱え
答えを流す雨に打たれ
笑おうぜ手をつなぎ今は
笑おうぜ腹を抱え
鎧を溶かす雨に打たれ
笑おうぜ涙垂れ流し
今さらNever Try Again!

 

チェッカーズ/ ACID RAIN

 

Acid Rain(=酸性雨)は、当時から幾度となく警鐘を鳴らされてきた環境問題なわけですが、憂いと恐怖と、空虚な気持ちで出来上がった混沌から生まれる皮肉めいた冷たいエネルギーを、どこか無機質なハウスサウンドに乗せて表現したのは本当に見事。
そして、サビで繰り返される“笑おうぜ”、というセンセーショナルなメッセージは、享さんのエッセイ『だんだん気持ちよくなってきた』の最終回に書かれているものと、とても通じるものがあるように思います。

というわけで、最後に私にとっての「だんだん気持ちよくなってきた」とは何だったのかを書いてみたい。
先に書いたように、確かにその時私のまわりで起こったことや、私が感じたことを書いていただけで、書いていくうちに自分がだんだん気持ち良くなればいいやと思っていた。で、そういうものというのは、ヘタするととてもマスターベーション的なモノで、他人に言わせれば「へえ、そぉ」で終わるのかもしれない。
しかし読者にわかって欲しかったのは、ゲーノー界という特殊なフィールドにいる私が、その立場を利用し、または反抗し、ある時には自分で皮肉ってここまでやってきたということ。そして人にはいろんな生き方があるけれど、ちょっとしたバカらしいことでもそれがもしイヤなことだとしても、逆にそれを自分なりに笑ってすませることができれば、楽に生きていけるんじゃないかな、ということなのだ。

 

武内享『だんだん気持ちよくなってきた』

この曲における笑おうぜ、という言葉は混沌への迷いとただの蓋かもしれないけれど、その反面それは楽に生きるための手法でもある。そして気持ちよくなるための手段である。挑発、反抗、あきらめ、いろんなメッセージも込めての言葉としての歌詞。曲の解釈はリスナーの数だけあるでしょうけど、とにかくここで“笑おうぜ!”って発するのはチェッカーズらしさのある種の結晶だと思います。
"チェッカーズism"というか、わかりやすく言うとチェッカーズらしさとかチェッカーズの流儀ってこのあたりの精神性なんじゃないかな。
 困難な状況、もしくは面倒なことにであったときにそれを笑おうぜ、に変えられるパワーこそがチェッカーズのすべてのメンバーに最初から最後まで共有されていたことなのでは。この人たち逆境につよそうだし。(どういうイメージなんだ)遊び心と強さが武器な人達。


あと唯一1991年のWHITE PARTYのテイクが映像として残っているの、この世の最も感謝すべき事案の一つだと思います。
このライブは、(ていうか後期のライブなんてみんなそう)チェッカーズの音楽へのパッションと優れた演奏技術、冒険的なライブ演出、培われ磨かれた表現力の集大成として褒めるとこしかない。

で、問題の(?)ACID RAINに関していうと、みんなの愛するクロベエのドラムでBPMあげるアレンジはずるい(そんなの優勝するにきまってるじゃん)、リズムパートに近い役割でのせてくるのにサックスと絡みだした途端に混沌の演出として光る武内享のギターパート(ギターソロも最高!)、大土井先生の正確かつチェッカーズの艶やかさの本質であるベース、全編見せ場だけどサビの裏メロと間奏部でのギャップが素晴らしい尚ちゃんのサックス、そしてCDテイクのカウントはやんないのかーい!って思わせておいてボーカルの戦闘力を4億倍にするマサハルさんとモクさんのコーラス(これ二人でやってるなんて信じられない、絶対5人ぐらいいる厚み)が重なっているので、もうほんと90年代日本の音楽シーンにおけるレガシーだと思うの。あ、藤井郁弥?あの子は言うまでもなく天才!以上!って気持ちになります。最高。

リンク貼っておくので全員DVD買ってください笑。

 

 


WHITE PARTYは全編リマスタリングして即刻映画にすべきだよ…40周年でやってもいいんだよ、ポニーキャニオンちゃん!


というわけで、また長く書いてしまった。最後に、夢と愛情が詰まったこのお言葉を。

チェッカーズは7人じゃないのよ、で9人でもない。スタッフもみんな入ってみんなでチェッカースっものをつくってきたと思っているから。もう既にオレの手元にもないなという。そういう意識があったよね。でもそれでいいんだっていう。いい形で盛り上げっていければ。(中略)本当に、バランス取れてるよ。強力なユニットだと思うね。表現できないものはないもん、このメンツがあれば。サンバだろうとオーケストレーションだろうと何でもできちゃうね。

 

解散時のインタビューより
チェッカーズ写真集452P(ソニーマガジンズ

チェッカーズは最高だし、享さんがリーダーでよかったなぁと思いました。おわり!

 

時系列に沿って研究するの絶対やりたい。。。また描きます

 

*1:“マンボ”ムーブメントー『14歳』では詳細に語られているので是非ご一読を。

*2:THE CHECKERS PATi▷PATi FILE 1984-1986 18P

*3:月間カドカワ1992年7月号31P

*4:ベストヒット1990年9月号141Pより。